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爆心地
爆心地〜芽吹き〜
爆心地〜芽吹き〜 原子爆弾が炸裂した時、爆心地は摂氏3,000度から4,000度に達しました。そしてコンクリートさえつぶす爆圧と、猛烈な量の放射能。ほぼ爆心地であるレンガ造りの島病院は崩れ落ち、当時病院内にいた患者や関係者は全員即死であったと言われています。
70年は草木も生えないといわれた広島の地ですが、被爆2ヶ月後に撮影されたフィルムは、爆心地周辺に芽吹いた、様々な命をとらえています。
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測定〜空中爆発点〜
測定〜空中爆発点〜 被爆2ヶ月後の広島には、原子爆弾の様々な影響を調べるため、全国から多くの科学者が集まっていました。
原爆がどのあたりに落ちたのかは、木や建物の倒れた方向からだいたいつかめていましたが、科学者の関心はその正確な場所でした。
フィルムには空中爆発点の位置を調査する2人の物理学者が撮影されています。 2人はどのようにして空中爆発点を計算したのでしょうか。
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西蓮寺・西向寺
西蓮寺・西向寺 原爆ドームから道路ひとつ隔てた場所に「西蓮寺」と「西向寺」があります。
2つの寺には、ほぼ真上から原爆の熱線と爆圧を受けた墓が今もたくさん残っています。
フィルムには、1945年10月に、墓の石材に使われた花崗岩の変化を調べる学者たちの様子が残っています。
熱線を受けて変化した墓石の様子は、60年を経た今でも、はっきりとわかります。
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広島県産業奨励館〜瓦解〜
広島県産業奨励館〜瓦解〜 原爆ドームは、1915年の完成時には広島県物産陳列館、その後、商品陳列所や産業奨励館と改称されました。周辺には美しい水辺が広がり、ヤン・レツル設計の洒落た建物では美術展や博覧会が行われ、会社事務所も置かれました。
8月6日。原爆は建物の南東160m地点の上空で炸裂しました。想像を絶する放射線と熱線、そして猛烈な衝撃波により、建物内にいた人は即死。建物は瓦礫と化しました。
原爆ドームは、1996年に核兵器廃絶と平和を訴える象徴として世界遺産のリストに登録され、核の脅威を伝えています。番組では、元職員が原爆投下前のドームの思い出を振り返ります。
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広島県産業奨励館〜継承〜
広島県産業奨励館〜継承〜 原爆は、広島県産業奨励館(現 原爆ドーム)の南東160mの上空580mで炸裂しました。3,000〜4,000度に達する熱線と放射線、1m2あたり35tもの猛烈な衝撃波が襲いました。職員らは全員が即死。周辺の町並みは壊滅し、人々の営みも消えました。
戦後、取り壊しを求める声が起こる一方で、核の脅威を伝える象徴としてドーム保存の動きが高まりました。1966年、広島市議会で永久保存が決定。全国から募金が集まり、翌春、初の保存工事が行われました。
核兵器が人類に何をもたらすのか。原爆ドームは、傷ついた姿をさらしながら私たちに訴え続けています。
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相生橋
相生橋 爆心から300mの相生橋は、原爆投下の目標でした。上からの爆風が水面に反射し、橋全体が持ち上げられました。欄干が落下した箇所もありましたが、通行には支障はありませんでした。相生橋は1983年に架け替えられ、被爆の記憶をとどめるものは残っていません。
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広島県商工経済会
広島県商工経済会 1934年、相生橋の東に近代的なコンクリートビルがたちました。広島商工会議所です。このビルにはひときわ高い展望塔があり、風光明媚な広島の風景を見渡すことができました。
1943年、全国の商工会議所は戦時における経済統制の推進役を求められ、名称も各県単位の「商工経済会」と変わりました。
そして1945年8月6日を迎えたのです。ビルは爆心地から260mの至近距離にありましたが、強烈な爆風に耐え、外郭は残りました。
そして戦後は1964年に解体されるまで、広島商工会議所として使われました。旧軍用地払い下げ運動、海外にむけて復興募金の呼びかけなど、広島の経済復興に関わる多くの運動が、このビルを拠点として発信されました。
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広島護国神社
広島護国神社 広島護国神社は、産業奨励館(現 原爆ドーム)のすぐ北側にありました。爆風で社殿と2基の鳥居は姿を消しました。しかし、爆心に最も近い南側の大鳥居と、狛犬や石灯籠などは、ほぼ垂直に爆風の圧力を受けたため倒壊をまぬがれたのです。
焼野原にたたずむ大鳥居は、原爆調査団が爆心の方角を確認するための目印となり、狛犬や石灯籠は、爆心付近の熱線と放射線に関する調査の対象となりました。
戦後、神社は当時の場所から650m北東の広島城郭内に移されました。被爆した狛犬や石灯籠が被爆当時を物語っています。大鳥居は中国放送の社屋前に移され、いまなお参拝客を迎えています。
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水道部
水道部 広島市水道部では、全職員186人のうち、市内各所で83人が原爆のため亡くなりました。
爆心地から550mの至近距離にあった水道部基町庁舎では、8月6日勤務の職員全員が犠牲になりました。
爆心地から2.8kmの牛田浄水場は、爆風で電気系統が破損しました。市内への送水が一時中断されましたが、火傷を負いながらも復旧にあたった職員らの努力で、その日のうちに送水が再開されました。しかし、職員らの努力のかいなく、焦土と化した市内中心部では多くの水道管が壊れ、水を求めて川へ飛び込む人が絶えなかったのです。
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芸備銀行
芸備銀行 芸備銀行、現在の広島銀行は原爆投下当時、本店を含め、市内に16店ありました。職員はおよそ450人。このうち144人が亡くなり、多くが負傷しました。原爆投下から2日後に比較的被害の小さかった日本銀行を借りて営業が再開されました。来客のほとんどが通帳や印鑑を焼失していましたが、芸備銀行は払い出しに応じたと記録されています。
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広島ガス
広島ガス 爆心から210m。広島ガス本社があった場所は現在公園になっています。原爆により、本社に出勤していたおよそ30人は全員亡くなりました。皆実町の工場も破壊され、広島市内のガス供給は完全に止まりました。広島地区のガス供給が再開したのは翌年の4月。初めてガスを送ったときは肩を抱き合って喜んだ、と記録に残されています。
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銀行
銀行 原爆投下前、現在の大手町、紙屋町一帯は銀行街と呼ばれ、広島一の金融街でした。三和銀行では25人が出勤していましたが、全員亡くなりました。農林中央金庫はレンガ造りの壁は残りましたが、屋根や最上階は大きく崩壊しました。
混乱の中、2日後の8日、大破を免れた日本銀行の建物を使って市内12の金融機関が業務を再開します。日本銀行は金融業務の記憶を留める唯一の場所です。
袋町国民学校〜伝言〜
袋町国民学校〜伝言〜 袋町国民学校は爆心地から460mの至近距離に位置し、朝会で校庭にいた先生、生徒約160人はほとんどが死亡、木造の校舎は倒壊し焼けてしまいました。
しかし鉄筋コンクリートの西校舎だけは建物の形が残り、多くの被爆者がここで治療を受けました。
戦後も西校舎は袋町小学校校舎として使われていましたが、老朽化のため惜しまれながら取り壊され今はモダンな校舎に建てかわっています。
西校舎の一部は隣接する「平和資料館」の中で保存されています。
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袋町国民学校〜再会〜
袋町国民学校〜再会〜 原爆によって広島市内中心部は焼野原となりました。
わずかに残った鉄筋コンクリートの建物は人々のよりどころとなりました。
袋町国民学校もその一つで、被爆直後から多くの被災者が集まり、救護所として治療が続けられていました。
フィルムには医師と治療を受ける患者の、2人の女性が映っています。
この2人が1995年、50年の歳月を経て再会しました。
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