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草津国民学校
草津国民学校〜救護〜
草津国民学校〜救護〜 草津国民学校は爆心から4.7kmと離れていたため、壁や天井などに被害はありましたが、倒壊はしませんでした。
原爆投下後、市内から逃れてきた多くの被災者を受け入れ、校舎は臨時の救護所となりました。9月には県病院の救護所も移ってきて、およそ3,000人の患者を抱える、救護の一大拠点となりました。
証言者は、学校の講堂にあふれていた人々の様子を語ります。
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草津国民学校〜医師たち〜
草津国民学校〜医師たち〜 爆心から西へ4.7kmの草津国民学校には、原爆投下からほどなく、被爆者らが殺到しました。ただちに救護所が開設され、医療関係者ら自ら被爆しながらも懸命に救護にあたり、4,000人もの被爆者に治療が施されました。
また、救護活動の一方、原爆症の病理学的死因を解明しようと全国の医大から医師が訪れ、研究のため遺体解剖も行われました。
命がけで患者と向き合った医師と、人体への影響を解明しようと心血を注いだ医師。彼らの取り組みは、その後も広島に引き継がれました。

己斐
己斐国民学校
己斐国民学校 己斐国民学校は爆心地から約3kmと、比較的離れていましたが、すさまじい爆風で窓ガラスは飛び散り壁や屋根の落ちた校舎もありました。
幸い校内にいた生徒に大きなケガはなく、全員無事に家に帰りましたが、まもなく学校は市内中心部から避難してきた大勢の被爆者で埋まってしまいました。
次々と息をひきとった被爆者の遺体は、校庭に幾筋もの壕を掘って焼かれたという事です。
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己斐の俵もみ
己斐の俵もみ 爆心地から2km以上離れた己斐地区では、毎年秋に五穀豊穣を感謝して「俵もみ」という行事が行なわれます。
被爆2ヶ月後に撮影されたフィルムにも、この祭りのにぎやかな様子が写っており、復興にかける市民の熱気が伝わります。
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一番電車
一番電車 被爆2ヶ月後のフィルムには、焦土と化した広島の街を走る電車の様子が撮影されています。
原爆投下時は朝の出勤時間帯で、多くの電車が混雑していました。運行中の車両のうち、45両が全焼および大破、計108両が被害を受けました。電力の供給も止まり、電車は完全にストップしました。しかし懸命な復旧作業が進められ、被爆3日後には己斐−西天満町間で折り返し運転が再開しました。
2006年現在、「被爆電車」は2両だけが現役で走りつづけています。
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横川駅
横川駅〜ある少年の死〜
横川駅〜ある少年の死〜 横川駅は被爆により倒壊、全焼しました。その全焼した駅舎と運命をともにした少年がいました。
当時旧制中学校の生徒だった少年は動員先の工場に向かうため、横川駅で下車、その直後に原爆が炸裂しました。天井のはりが落ちてきて、少年は片足を挟まれました。「助けて!」の叫び声に、横川駅前派出所の警察官が駆けつけました。しかしはりは重く、警察官の力でも動かすことが出来ません。…火の手が迫ります。
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大芝国民学校
大芝国民学校〜日記〜
大芝国民学校〜日記〜 爆心から2.4km離れていた大芝国民学校は、爆風で北校舎2棟と宿直室や講堂などが倒壊しましたが、翌7日には救護所が開設され、医療活動が行われました。かろうじて倒壊をまぬがれた建物には負傷者や避難者が殺到し、数百人でいっぱいになりました。
撮影に訪れた日本映画社のカメラマンは、被爆して衰弱した少女が土間に横たわる姿に、我が子の姿を思い出しました。その時のやりきれない気持ちが、当時の撮影日記に綴られています。
大芝国民学校〜ある家族〜
大芝国民学校〜ある家族〜 爆心地から2.4km離れた大芝国民学校には、原爆投下の翌日には救護所が開設されました。自らも被爆した医師らがかけつけ、数百人の被爆者の治療が行われました。
フィルムには、傷ついて横たわる母親と12歳の娘の映像が記録されています。撮影後、2人は相次いで亡くなりました。怒りと悲しみを抱えながら生き残った兄は、2人の思い出を胸に1996年この世を去りました。原爆は、生き残った被爆者から家族を奪い、人生を大きく狂わせたのです。

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