はじまるくん
広島逓信病院〜解剖
爆心から1.3kmの近距離に位置しながらも全焼をまぬがれた逓信病院では、8月6日午後から被災者の応急処置が始まり、その日収容した重傷者だけで250人に上ったといわれています。
しかし治療を重ねてもケガが治らない、脱毛、皮膚斑点が出るなど、説明のつかない症状を見せて悪化する患者の対応に医師たちは苦慮します。原因解明のため病院の別棟では、病理解剖が夜遅くまで続けられました。解剖は放射線による人体への影響を、はじめて医師たちに知らせました。
【2004.11.27放送】


己斐の俵もみ
爆心地から2km以上離れた己斐地区では、毎年秋に五穀豊穣を感謝して「俵もみ」という行事が行なわれます。
被爆2ヶ月後に撮影されたフィルムにも、この祭りのにぎやかな様子が写っており、復興にかける市民の熱気が伝わります。
【2004.11.20放送】


広島駅
爆心から1.9kmの広島駅。鉄筋コンクリート製の駅舎は残りましたが、改札室が崩れ旅客が下敷きになるなど、駅構内は大きな被害を受けました。
しかし一命を取りとめた職員らの復旧作業により、すぐに臨時改札所が開設され、翌7日には宇品線、8日には山陽本線が部分開通します。
列車の開通は被災者の避難や物資の輸送に大きな役割を果たし、広島の復興のスタートとなりました。
【2004.11.13放送】


広島本通商店街
戦前およそ160店舗が営業していた本通り商店街。原爆投下直後の火災により鉄筋の建物以外はすべて焼失し、ほとんどの人が亡くなりました。
下村時計店は英国風の洒落た建物でしたが、原爆により1階部分がつぶれました。
広島パルコ壁面にキリンビアホールの被爆レンガがはめ込まれています。レンガだけが本通りの被爆の記憶を留めています。
【2004.10.30放送】


相生橋
爆心から300mの相生橋は、原爆投下の目標でした。上からの爆風が水面に反射し、橋全体が持ち上げられました。欄干が落下した箇所もありましたが、通行には支障はありませんでした。相生橋は1983年に架け替えられ、被爆の記憶をとどめるものは残っていません。
【2004.10.23放送】


一番電車
被爆2ヶ月後のフィルムには、焦土と化した広島の街を走る電車の様子が撮影されています。
原爆投下時は朝の出勤時間帯で、多くの電車が混雑していました。運行中の車両のうち、45両が全焼および大破、計108両が被害を受けました。電力の供給も止まり、電車は完全にストップしました。しかし懸命な復旧作業が進められ、被爆3日後には己斐−西天満町間で折り返し運転が再開しました。
今でも広島市内では、「被爆電車」4両が現役で走りつづけています。
【2004.10.16放送】


横川駅〜ある少年の死
横川駅は被爆により倒壊、全焼しました。その全焼した駅舎と運命をともにした少年がいました。
当時旧制中学校の生徒だった少年は動員先の工場に向かうため、横川駅で下車、その直後に原爆が炸裂しました。天井のはりが落ちてきて、少年は片足を挟まれました。「助けて!」の叫び声に、横川駅前派出所の警察官が駆けつけました。しかしはりは重く、警察官の力でも動かすことが出来ません。…火の手が迫ります。
【2004.10.9放送】


広島逓信病院〜治療〜
逓信病院は強烈な爆風に耐え、倒壊しませんでした。まもなく周囲から猛烈な火災がおそいましたが、職員の懸命な消火活動で全焼はくいとめ、最低限の医療器具を確保しました。そしてまだあたりが燃えさかるなか、殺到する多くの負傷者に対し、昼夜を問わず、医療活動が続けられました。
被爆者医療の出発点となった逓信病院の旧外来棟は、その後保存工事が行なわれ、現在は資料室として公開されています。
【2004.10.2放送】


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