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京橋
京橋 京橋は爆心から1.4km。爆風が橋を渡る形で抜けたため、両側に建つ石柱の上部がずれた程度で通行には支障がありませんでした。市内中心部で被爆した人々の中には京橋を渡り、郊外への避難を試みた人も少なくありませんでした。
道路整備により、車や人の流れが変わった今も京橋は静かに人々の行き来をみつめています。
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広島駅
広島駅 爆心から1.9kmの広島駅。鉄筋コンクリート製の駅舎は残りましたが、改札室が崩れ旅客が下敷きになるなど、駅構内は大きな被害を受けました。
しかし一命を取りとめた職員らの復旧作業により、すぐに臨時改札所が開設され、翌7日には宇品線、8日には山陽本線が部分開通します。
列車の開通は被災者の避難や物資の輸送に大きな役割を果たし、広島の復興のスタートとなりました。
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麒麟麦酒広島工場
麒麟麦酒広島工場 麒麟麦酒広島工場は、12万m2の広大な敷地に醸造工場など30数棟を備えた日本最大級の工場でした。爆心から4.05km離れた工場は停電し、屋根や窓は破損。従業員の多くがけがを負いました。工場には広島市内から被爆者らが避難し、混乱に陥りました。
戦後も稼動しつづけた工場は1998年に閉鎖されました。現在は大型ショッピングモールや見学施設を備えた「キリンビアパーク広島」として生まれ変わり、人々でにぎわっています。併設のビール生産ラインでは、年間2,000キロリットルの生ビールを生産。戦禍を乗り越えてビールを出荷し続けた職人の気概を今に伝えています。
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仁保国民学校
仁保国民学校〜被爆当日の救護〜
仁保国民学校〜被爆当日の救護〜 仁保国民学校は爆心から東南東に4.2kmと比較的離れていました。
当時校舎は陸軍暁部隊が宿舎として使用していました。
原爆投下からほどなくして被爆者が避難し、臨時の救護所になりました。
治療には陸軍暁部隊や近くの開業医があたり、数人の教職員や近所の人たちも看護を手伝いました。
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仁保国民学校〜救護所から病院へ〜
仁保国民学校〜救護所から病院へ〜 仁保国民学校は原爆投下直後から被爆者が押し寄せ、臨時の救護所になりました。10月には日本医療団仁保病院に指定され、被爆者の治療が続けられました。冬に入り、ここで治療を受けた被爆者は「毛布1枚だけかけて板の間で寝ていた」と証言しています。
現在、仁保小学校で被爆前の姿を残しているものは正門だけになりました。
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第一陸軍病院宇品分院
第一陸軍病院宇品分院〜患者〜
第一陸軍病院宇品分院〜患者〜 軍港宇品の近くにあった陸軍船舶練習部には、原爆投下から程ない午前9時過ぎに10数人の負傷者が到着。次第に重傷者が増え、翌7日朝には患者は3〜4,000人にも達したと言います。9日には第一陸軍病院宇品分院に指定され、10月の閉鎖までに収容された被爆者はおよそ6,000人に上りました。
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第一陸軍病院宇品分院〜撮影〜
第一陸軍病院宇品分院〜撮影〜 宇品にあった第一陸軍病院宇品分院での撮影が始まったのは病院が閉鎖される直前の10月2日でした。
フィルムに写された患者は9人。内8人が元兵士でした。
原爆による人体への影響を記録しようと、一人ひとり綿密に撮影されました。
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